良く頂く御質問のキーワードを拾って説明します。
キーワードを知ると当資料館の内容もぐんと分かりやすくなると思います。

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            <文中敬称を略させて頂きます>            
「三木鶏郎」 ペンネームの由来
敗戦直後の混乱状態の中、文字通り食べるために米軍キャンプでピアノを奏き楽団を編成。そこで「君の名は?」と米兵に聞かれ慌てた。まだ名前をつけていなかった。かねて尊敬していたディズニー漫画の主人公ミッキーマウスを拝借してMICKY MOUSE AND HIS ORCHESTRA とした。MOUSEはおかしいというので音楽語のTRILLERと置き換えた。NHKに出たとき、これを日本語にして「三木鶏郎」とした。(1976/11/01筑摩書房「言語生活」より抜粋)
---最初、鶏郎本人は「鶏郎」を「とりお」と読ませるつもりだったが、ルビをふらなかったため、アナウンサーが「とりろう」と読み違え、それがそのまま通 ってしまったそうだ。

歌の新聞
1946年1月29日にスタートしたNHKラジオ番組。鶏郎がこの放送に抜擢されたのは、焼跡の歌「南の風が消えちゃった」を売り込んだのがきっかけ。初放送の10分(モチロン生放送)を任されてしまった鶏郎は、朝川賞郎、秋元喜雄(のちの河井坊茶)に声をかけ、コメディアン・ハーモニストとして出演した。歌だけではもたないので、曲と曲の間に一口コントをはさむアイデアを取り込む。放送後、新聞の辛口ラジオ評コラムに「彗星のごとき天才現る。その名はコメディアン・ハーモニスト!」と絶賛された。

冗談音楽
「歌の新聞」で使った曲と曲の間に一口コントを入れるアイデアを、「日曜娯楽版」の一部を任された時、鶏郎が「冗談音楽」と名付けた。

三木鶏郎グループ
第1回「歌の新聞」出演後、三人(朝川賞郎、秋元喜雄、三木鶏郎)の呼称をコメディアン・ハーモニストからミッキー・トリオに変更。この素人集団ミッキー・トリオにプロが参入することになったり、常連が3人とは限らなくなった為に、三人でもよし、多数でもよし、ということで、「三木鶏郎グループ」と名乗ることに。後々、三木のり平、丹下キヨ子、千葉信男、小野田勇らが参加した。

三木鶏郎楽団
ダンスホールのジャズバンドに雇われてピアノを弾いていた鶏郎が、バンドマスターのピンハネによる夜逃げによってバンドを任されることになった。この時鶏郎はバンドそのものを日本初の組合組織にした。組合長となった鶏郎はメンバーにいくつか条件を出したが、その中に「この楽団がラジオや舞台に出演する時、三木鶏郎楽団とする」と決めた。後に、ジョージ川口、小野満、鈴木章治らが参加した。

日曜娯楽版
NHKで1947年10月5日にスタート。歌、漫談、落語、浪花節ありのバラエティー番組で、最後のしめくくりに鶏郎の「歌の新聞」がリクエストされた。鶏郎はタイトルを「冗談音楽」として出演。鶏郎が出演したのは第2回目の10月12日、最後の7分半。番組では次第に「冗談音楽」の人気が上昇し、鶏郎が番組の全編を任されることが多くなっていった。聴取率は70%とも80%とも云い伝えられる。時の政治を風刺しすぎ刺激しすぎ、1952年6月8日廃止。

ユーモア劇場
「日曜娯楽版」廃止一週間後の1952年6月15日、改名してスタートしたのがこの番組。「日本独立にふさわしく、春風のごときユーモアを」という奇妙なメッセージがついていた。タイトルが変わっただけかと思ったら大間違い。本体の内容も風刺を避けた当たり障りのない「コント」や「川柳」に置き換えられた。「冗談音楽」も元気がなくなり、聴取率も急降下。しかし開始から10ヶ月後、改善策を練った鶏郎が毎週本体丸ごと仕切るようになって活気を取り戻した。しかしそれはまた政府を刺激する爆弾の導火線にもなった。そして事件は雲隠れ事件へと発展。1954年6月13日最終回。



これから少しずつキーワードを追加していきます。